[ 素描日本 ]

中日経済交流の現場から見たヒト、モノ、カネの流れ(その3)

发表时间: 2008年05月05日 05时55分         评论/阅读(/)
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中日経済交流の現場から見たヒト、モノ、カネの流れ(その3)

日系企業と「中国のデトロイト」

 上海、北京、広州などの中国大都会では、日本ブランドの車がますます多くなっている。一九八〇年代から九〇年代にかけて、ドイツ系のフォルクスワーゲンが中国産自動車のシェアの七割を占めていた。国内で製造する車といえば、フォルクスワーゲンのサンタナであり、日本メーカーは四川、天津、北京などで細々と製造してはいたが、シェアから見ると、日本車の比率はあまりにも低かった。


(北京モーターショーに展示されたトヨタの自動車には価格も書かれている)
  
 「日系自動車メーカーは中国市場を軽視していた。投資を誘致するために日本に行っても無駄に終わるだけだった」という批判に対して、自動車評論家の賈新光氏の見解はまったく違う。「日本の自動車メーカーは大衆車を生産するのが得意であり、大衆消費の時代がやってこないと、中国へ投資に来るはずもなかった」と反論する。
 中国の人口対乗用車の保有台数(普及率)は、二〇〇八年に三~四%になり、年間の販売台数は日本を超え、世界第二位になった。まだ普及率は低く、自動車の大衆消費の時代に入ったとはいえないが、年間販売台数八百万台という数字は、企業にとって大きなビジネスチャンスであることを示している。
 しかし、中国を制覇したフォルクスワーゲンは、上海を「中国のデトロイト」にする考えをまったく持たなかった。サンタナなどは、役人や企業経営者が使う車であると見なされ、二十年間、ほとんどモデルチェンジをしなかった。米国のビッグスリーも、中国で本気に自動車を生産する考えがなかった。武漢、天津などで細々と乗用車をつくっていた日系企業の中から、一九九九年にホンダが広州で、撤退したフランスのプジョーの工場跡地に進出し、年間一万台の生産を始めた。
プジョーが撤退したのに、ホンダが出て、成功する保証はなかった。しかし二十一世紀の到来とともに、中国でも自動車が爆発的に売れるようになると、日産、トヨタも広州に進出し、二〇〇七年には日系三社の生産能力は百万台(ホンダ四十二万台、日産三十六万台、トヨタ二十万台)まで成長した。
 トヨタは、米国でのシェアは一三%前後であり、中国でも同様のシェアを得たいと考えている。一汽豊田銷售有限公司の毛利悟?総経理は北京のオフィスで「二〇〇八年に四十万台の乗用車を販売したい」と語った。二〇〇三年の販売台数は四万三千台だったから、わずか五年で九倍以上の増加を目指しているわけで、高すぎる目標のように見える。実際、〇七年の販売は二十八万一千台だった。
    しかし二〇一〇年には、中国の自動車生産量は一千万台に成長する見込みである。広州トヨタが四十万台の生産量を持つようになると、南北二つのトヨタが中国では一〇%のシェアを持ち、百万台の販売量を達成することは、慎重に行動するトヨタにとっては、そう難しい目標ではない。
 中国に自動車消費のブームがやってこようとするとき、広州を拠点にして乗用車を製造しているのは、日系企業である。広州は現在、「中国のデトロイト」になっており、生産量の面では、GM、フォクスワーゲン、スコダなどの欧米企業と国産の栄威が集まっている上海と拮抗している。
 北京、上海、広州などの大都会で日本ブランドの車が今後はさらに増加していくことは、間違いないだろう。

原载《人民中国》2008年4月
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